こんばんは。
皆さんの地域では桜も終わりの頃でしょうか。
こちら飛騨ではようやく桜の季節ですよ!
でもこの春は少しだけ寂しい出来事がありました。
1ヶ月遅れの春
山間部に位置する飛騨は春が遅いです。
日本のど真ん中に位置しているのに、だいたい北海道と同じような季節感で一年が進みます。
また、お祝いごとは旧暦をもとにしているため、今月の3日がひな祭りでした。
自然も暦も、いよいよ名実ともに春だな~という感じです。
畑の桜
僕らが借りている畑のそばには、立派な桜の木があります。
このブログでもたびたび登場しているその桜は、僕にとって春の訪れを教えてくれる大事な存在。
去年その桜が満開になった時の記事はこちらです↓
少し高台にあるこの畑。
毎年4月も下旬の頃になると
地元住民が通るだけの細い道のわきで、
それはそれは華やかに季節を彩ってくれました。
今年は全体的に気温の上昇が早く、
飛騨のいたる所で、すでに桜が咲き始めています。
これはかなり早い開花でして、
来週末に控えた「春の高山祭」よりも先に満開を迎えるのはレアケースだったりします。
だからきっと畑の桜もそろそろ…
のはずでした。
冬の内に切り倒されてしまった
ところが今年の1月。
犬の散歩で畑のある裏山を歩いていた時のことです。
ふと顔を上げると、畑の方からひとすじの煙が上がっていました。
(え?火事?)
急いで畑へ向かうと、同じ町内のAさんが桜の木を切っていました。
「おう、ごくろうさん」
「この桜、切っちゃうんすか?」
「ああ、〇〇さん(畑を貸してくれているばあちゃん)に頼まれたんやさ。
ばあちゃんももう歳やし、すでに大枝がいくつか折れとったでな」
「そうすか…寂しいなぁ…」
「まあ、〇〇さんは独り身だし、色々先を考えて片付けはじめとるんやろうな」
「…」
よそから来た自分にはピンとこないのですが、
木なんてずっと植えっぱなしでいいんじゃなかろーか。
それも自分の土地。
ましてや隣接する家屋だってないんだし、
たとえ自分が死んだ後も、ずっとずっとその場所に立っていても良いような気がするのに。
でもやっぱり、そういうわけにはいかないんだろう。
いずれ枝が折れれば、誰かが切り落として処分しなければいけないし、
それをする親族が近くにいなければ、町内の誰かがやることになる。
(あ、少し離れたところには、ばあちゃんの親族はおられます。念のため。)
でもきっとそれは、ばあちゃんにとっては「迷惑をかけた」ってことになってしまうのだろう。
それならば自分が生きている内にやることをやってしまわないと、ってとこなのかな。
そうだよな。
大好きなばあちゃんも、いつかはいなくなる。
う~ん…めっちゃ悲しくなってきました。
桜は、春に花をつけ
その花は風に舞って落ちて
芽吹いた葉は茂り
それもまた落ちて土の栄養となって
一年をかけて桜の木の根が吸って
また春になると、大空に向かって花でいっぱいの両手を広げました。
思えば僕らの畑にも、その花と葉は落ちていたことでしょう。
ただただ花の美しさを楽しませてもらっただけでなく
農作物となって、僕らの体に吸収されていたのです。
でもそんな循環も、この冬で終わってしまいました。
もうあの桜の木に会えないのは本当に寂しいけれど、
もし自分の中に、あの桜の木への感謝の気持ちがあるとすれば、
すべきことは、これからもあの畑を一生懸命使うことなんだろうな。
「循環を続ける」ことなんだろうな。
そして、それは畑だけに限らず、
故人の願いや思いを受け継ぐことだったり、
自分の子供へ、子から孫へと遺伝子を受け渡すことだったり。
人も自然も、循環の中で生きているんだな、と
なんとも知った風なことを思ったりしたのでした。
そして幸いにも?桜には「切り株」が今も残っています。
いつかあの切り株から小さな芽が出て
それがいつの日か、また満開の花を咲かせてくれたら本当に嬉しいです。
その頃には娘はもう大人になっちゃってるだろうな。
嬉しくて、どこか寂しい。
なんだかお父ちゃん、おセンチになってばかりです(笑)
今年2018年の桜はおそらく、春の高山祭(4/14(土)・4/15(日))より先に満開になってしまいそうですが、
おそらくピークをほんの少し過ぎた程度だと思います!
きっと色鮮やかな山車と、青空の下で映える桜のコントラストが楽しめることでしょう(^^)
そして、曜日に関係なく日付がガッチリ固定されている高山祭は、今年はなんと両日とも休日!
これは賑やかなお祭りになりそうです。
ご都合が許す方はぜひ遊びに来てくださいね。