大雪の晩に夏の北アルプスを思う

こんばんは。


めっちゃ雪降ってます。

まーた積もるなぁ…

明日が休みなのが救いですけど。


こんな時はせめて脳内で、あったかい夏山に逃避しよう。

※今回は笠ヶ岳でお送りいたします

夏の山稜を歩く

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一歩。

また一歩。


ジリジリと焼けつくような日差し。

街よりも「物理的に」太陽が近く、まるで直火で焼かれているような気分。


山は、最初の30分の登りが一番つらい。

これは体が「登山モード」に入るために必要な時間なのだ。


息も切れるし、足も重く感じる。


ふもとから登り始める場合、周辺はまだ「森」であり、

雄大な眺望までは長い距離と時間がある。


登り坂に差しかかるまでは色々と考える余裕があったのに、今はただただ、「次の一歩」を下ろす地面が視界に映るだけだ。


汗が首筋を流れる。

首にかけた手ぬぐいがそれを吸い、繊維にじわりと広がる。



ふと「なんで山なんか来ちゃったかな…」などと考える。

快晴の日を選んだのは失敗だったかな。

もう少し、空に雲のある日でも良かったんじゃなかろうか。


そう。

ツライ時は色々と自分に言い訳したくなる。


山の魅力って何だろう

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そんな山に、なぜ登るのだろう。

わざわざ重い荷物を背負い、せっかくの休日を早朝から費やして、自らツライ思いをして、翌朝には筋肉痛の体を引きずって、また長い長い一週間が始まる。



僕は、人に「山の何が良いの?」と聞かれた時、

相手が納得する答えを用意する自信が無い。


なぜなら、「また」山に登りたいと思った人にしか理解できないと思うから。


つまり、最低でも一度は山に登ったことがあることが前提となる。


一度も登山をしたことがない人に伝えるそれは、

海外に行ったことの無い人に「やっぱり飛行機に乗るならファーストクラスだと思うんだけどどうかな?」

と尋ねるようなものではなかろうか。


(まあ僕はファーストクラスなんて当然乗ったことがないし、たぶんこれからも乗る機会はないのだけど)



そして、山に魅力を感じるかどうかは、

登山を終えた時、初めて実感するのだ。


視界が開けた時、心も拓けるのだ

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頭の中で不毛な自問自答が交錯している内に、やがて視界は一変する。

森林限界を超えたそこは、閉塞感という概念から解放された世界。

視界を遮るものが無くなった時、心の遮蔽物も音を立てて瓦解し始める。

・・・

体はすでに「登山モード」に切り替わった。

体に余裕が出ると、頭と心にも余裕が湧いてくる。


標高が上がり、日差しの厳しさも増したが、

頬をなでる風の心地よさはそれを上回る。


いつしか自分との対話も、言い訳じみたネガティブなものから、

今日という日に、この山にいることが出来た自分への賛辞に替わっていく。


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目線の先に、山頂が現れる。

やがて山頂標識が目視できるようになり、その瞬間が訪れる。


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山は、この世界は、この惑星は、こんなにも広大だ。


そして世の中心に自分がいる。


こう書くとなんとも自己中心的に聞こえるが、

今それを考えている自分から見た世界なのだから、

やはり中心は自分なのだ。



そして、散々使い古された表現だが、

自分というものがいかに矮小なものであるかを痛感するのだ。


・・・
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人は日常の中で、大小様々な悩みに頭を抱え、体は疲弊し、心は消耗していく。

疲労は極力、繰り越さないように。

ストレスはなるべく溜めこまないように。

誰もが分かっているのに、そう上手くは事が進まない。



大人になるということは、

必要なものもそうでないものも、

ペタペタと心身に張り付けていくようなものだと思う。


必要かどうか、いざ「その時」になってみないと分からないから、

数の限られたポケットになんでもかんでも詰め込んで、体はどんどん重くなっていく。

本当は少し下ろしたいな…と思っている心も、どんどん窮屈になっていく。

・・・

山頂では、その荷物を少し下ろすことが出来るような気がする。

登頂した充実感と共に、ゆっくりとザックを下ろした瞬間、「必要でなかったもの」のいくつかがコロリと転げ落ちていくのだ。



僕は、なんとなく心身ともに疲れた時ほど、山に行きたくなる。

それはきっと「下ろしたい荷物」が増えてきた証拠なんだと思う。


山小屋に覚えるは望郷の念


日本の山小屋の多くは、1900年代初頭から中期に建てられたものがほとんどだ。

大正・昭和の時代に登山ブームが訪れ、登山道も山小屋も一気に発展した。

つまり山小屋には、当時の様式の建物と、そこに関わった人々の息吹と、

山に思いを馳せた人たちの青春や思いなどが色濃く残されている。


僕がお世話になった山小屋は、昭和10年に建てられた後、戦時中には無人となり荒れてしまったそうだ。

その後、昭和25年に、現オーナーのお父さんが運営を引き継ぎ、今に至る。


今のような重機も無い時代。

小屋を建てるための材木は、人が背負って山を登った。

増改築を繰り返しているものの、その収容人数は百人単位。

どれほどの苦労だっただろう。



その貴重な材木は、決して無駄にはしない。

様々な用途で繰り返し使われる木材。

人目に付かない食糧庫の柱や壁面には、歴史を感じる落書きが溢れていた。


昭和〇年 〇〇大学山岳部〇名、登頂記念

昭和〇年 〇〇(人名)〇〇(人名)、いつか再びこの山頂を目指すことを誓う



落書きは褒められたことではない。

中には、ここでは書けないような品の無いものもある。

しかし、かつて自分が書き記した落書きに、長い年月を経た後に

建物も落書きも、そのままの姿で再会することが出来たなら、どれだけ胸が高鳴ることだろう。



山は、いつまでも待っていてくれる。

山小屋は、「あの日」の自分に会える場所。


僕が2年過ごしたあの山は、あの小屋は、あの仲間たちは

僕にとって生涯、特別な場所・特別な人達なのだ。

山は変わらないし、たとえ小屋が無くなったとしても、僕の中で永久に輝き続ける。


外界と隔てられているからこその良さ

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2015年に改築される前の高天原山荘


ガスも電線も水道管も、町と繋がっていない。

携帯電話の電波も届かない小屋もたくさんある。

今でこそプロパンガスを用い、発電機を利用することで町と変わらぬ時間を過ごすことができる。

でも、僕個人の意見として、山小屋は昔のままであってこその良さがあると思う。


・・・

山小屋の中には、今なおランプで明かりをとる所がいくつかある。

現在ほとんどの小屋で使用している発電機は、ガソリンでエンジンを回す為に大きな音が生じる。

時が止まったような静寂につつまれることは、山小屋の中でも貴重なのだ。



中部地方に在住の方しか見ることが出来ないが、

2月12日の深夜2時25分より、メ~テレにておすすめの番組がある。

「北アルプス 稜線のふるさと ~ランプの山小屋だより~」という番組が再放送される。

www.abn-tv.co.jp

山小屋というものに多少なり関心がある方は是非ご覧ください。


日常も「登山」のようなもの

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生きることは大変だ。

まだひよっこの自分にも、それだけは分かってきた。


朝起きて仕事に向かう。

それは、登山口から歩き始めるようなもの。


日中、精一杯頑張る。

それは一歩一歩、歩みを進め、今日という一日の「山頂」を目指すようなもの。


仕事を終えて、家で過ごす。

それは今日一日の自分をねぎらい、再び明日の登山を乗り切るための鋭気を養う時間。


さあ、荷物を下ろそう。

心の中の「不必要なもの」を下ろそう。

「ただいま」と言えた日は、本当に幸せな日なのだから。