時代の陰に惹かれる

こんばんは。

やたらと重苦しいタイトルですけど。

今日はそんなお話。

廃墟とかダムに沈む村とか


こちらは高山市にある飛騨昭和館という所っす

栄枯盛衰。

人々の営みがあった場所が、時代に取り残されるように廃れていく。

自分はそういうものが結構好きです。


土に還っていく家屋。

地図から消えた集落。

その営みに活気があった分だけグッときます。


衰退の陰には様々な思いもあったことでしょう。

それを思うと「好き」なんて気安く口にしてはいけないのかもしれません。

でも、ゼロから始まったものが100になり1000になり、それがまたいつしかゼロに還っていく。

そこにはひとつの美しさにも似たものがあるように思うのです。

つげ義春の世界観

話の流れでなんとなく。

これまた大好きなのです。

同世代には、誰それ?って言われるのが一般的。

もし知ってる人がいたら

…え?ああいうのが好きなの?へ、へぇ…(ー ー;)

という感じになってしまう昭和の漫画家さんで、絵のタッチは…水木しげるみたいな感じかな。

ジメジメ〜っとした薄暗い裏通りみたいなシーンばっかりです(笑)

「やなぎ屋主人」

という作品があることを昨日、知りました。

1970年代の作品だそうです。

その舞台は僕の故郷でもある、千葉県は袖ヶ浦。

幼少期から長いこと過ごした長浦という町の駅が「N浦駅」として登場します。


この眺め、とても懐かしい…


今でこそ綺麗に作り直されていますが、僕が幼い頃は、まあ地味で薄汚れた田舎の駅でした。


そんな長浦駅から木更津方面に向けてほんの数分歩いた所に「やなぎ屋」という古びた食堂があり、

主人公がたまたま立ち寄ったところから物語は始まります。


この「やなぎ屋」というお店。


実在します。


グーグルマップでは「よろずや」という名前で出てきます。

(しかし、お店自体はどうやら数年前に閉店された模様です)

自分は行ったことなんてないし、おそらくこの先も行こうと思うことはなかったでしょう。

外観はかなりの年月の経過を感じさせ、店の看板もないし、のれんにも店名はないような店構えでした。

・・・

では、なんで強烈に覚えているかというと。

ここのお隣にあった、

いやこちらは今も営業されている「布団屋さん」に

僕は非常に深い縁がありまして。


実はそちらへは勇気を出して数年前に行ってきたのです。

約30年ぶりにね。

結婚したよ、と報告したら、お店のおばちゃんは本当に喜んでくれました。

懐かしい懐かしいと言って涙を流してくれて、僕もおもわず貰い泣き(笑)



店の中は、当時と何も変わっていませんでした。

それはもう、びっくりするほどにね。

・・・

当時、我が家の両親は共働きで、

幼稚園に通っていた僕は、送迎バスにこの布団屋さんの前で降ろしてもらい、

そこで祖母の迎えを待つ、というのが日課でした。

祖父母は蕎麦屋を経営しており、店が忙しいとなかなか迎えに来ることができず

僕は店のおばちゃんと、今日幼稚園でこんなことがあったとか、

なんかお菓子ない?とか、そんなやりとりをしながら過ごしたのでした。

正直あんまり覚えていないけどね( ̄∀ ̄)


その祖父母も亡くなったことを告げると

「寂しいね…夏も冬も、おばあちゃんがあの踏切の向こうから、曲がった背中で一生懸命歩いて迎えに来てくれたっけね…」

とつぶやいていました。

その光景だけはよく覚えています。

ぎゅっと手をつないで帰ったな…。

ちょっとでも手を離すと「危ねえよ」と注意されたものでした。

その気持ち、今になってようやくわかるよ。

かわいがってくれてありがとうね。

・・・

ちなみに、こちらの布団屋さんも「よろずや」に負けず劣らずの昭和レトロたっぷりな外観です。

きっともう修繕することもないのでしょう。

おばちゃんが引退するとともに、きっと建物も無くなっていくのです。

僕は思いました。

自分が少し退廃的なものに惹かれる理由の一端。

それはきっと自分の中の原風景に、少なからずこういうルックスの建物やそこで暮らす人々との思い出があり、

さらにそれらがとても「良い記憶」であるから、なのかもしれません。


昭和という時代、

なにもかもが大きく成長していった一方で、

生き方を変えず、愚直に、不器用に。

そんな生き方をした人たちの遺していった影のようなものに

もしかしたら自分は惹かれるのかなぁ、なんて思ってみたりしたのでした。

今日の一枚

家からほど近くにある、廃屋となりつつある空き家。

ここでどれだけの年月を過ごしたのだろう、と想いを馳せるのはなかなか楽しいです。

(暗いなぁ…笑)